少年たち2016① あの子が出てるから見るという矛盾。

日生劇場で少年たちが始まって中日を超えました。

私は去年の初演のときから、この少年たちの「キョウモト」がルドルフに継ぐほど好きなので、今年も非常に楽しみにしていました。

現在進行形で観劇しているので、いつもなら千秋楽を迎えて、だらだらと京本君のここが良かっただの何だの書き留めるのですが、今回はひとまず千秋楽を迎える前に。

千秋楽を迎えたら、後述するほぼ120%の満足を書き残そうかと思います。

 

前置きすると、「京本くんのファン」として「京本君」が演じる「キョウモト」には、ほぼ120%(表現が矛盾だらけですけど、、)満足しないわけがない、というくらいに楽しめています。

なんてったって、悲願の手越君との共作のソロ曲が歌えることや、役柄に出番、演技、歌・・それは千秋楽を終えていつもの感じでまた書き留めるとして。

 

ただ、何度も見たいと思う理由が彼の演じる姿、歌う姿が見たいからということだけに、観劇するモチベーションが集中してしまっていることに矛盾を感じるのが個人的な2016年の少年たちの感想です。

それは決して他の演者の問題とかではなくて、直球で言えばストーリーの問題なのかなと。

 

本当に個人的な感覚で、舞台を見に行った一人の観客のたわごとです。

正直2015年の少年たちのほうが、最後の急展開にえ?という感想を持ったことは否めないけれど、ストーリーとしてん?という違和感を感じることは2016年より少なくて、見易い舞台でした。

今年は、それぞれの出所後にもスポットを当てることで、それを一まとめにする結果に無理がありすぎて観ていても、劇とはいえそんな設定がありえるのか?と思うことが多かったり、

もっとこういう背景の説明がないと見ている側の人間には分からないのでは?と思うことが多かったです。

 

焦点を絞るなら、①生中継、②謎のキョウモトという存在 といったところですかね・・。

    はもうジャニーズの話なんだからそこは別物と考えろ!といわれそうですが、どうかんがえても、なんでいきなり兄弟は補給部隊に日本人なのに派遣されているんだ、テレビ局側の人間がジェシーの姿を見れるのはわかるけど、なんでジェシーがテレビ局側の人間を見ることができるんだとラストの展開に疑問符だらけ。

マリウス君の戦死により、ジェシー君の意識が変るというくだりに戦争の現実的な恐怖を感じるし、戦争のシーンが増えることも個人的にはなにも異論もないですし、二人のシーンのセリフには考えさせられることが非常に多く、あってしかるべきシーンだと思います。とくに「戦場ではやさしいやつから死んでいく」とか「戦場で愛を持っていれば死ぬぞ」というセリフとか。そこまでのシーンがあるのに、どうしてラストあんなに非現実的な展開になるんだと思わずにはいられなくて。けれどその理由はジェシー岩本京本以外の子達の未来をひとつにつなげるための展開、はたまたラストあのシーンが先に決まっていてという鶏が先かたまごが先か論争になりそうですけど、でもやはり腑に落ちない。一幕で今までの少年たちの脱獄するということとか2つのチームの対立と和解とかそういう部分を薄くした結果にこの設定?という疑問がぬぐえなかったです。ジャニワもストーリーってなに?の典型だと思うのですが、あれはあれで一環してストーリーって?なのでまだ気にならない。今回は現実的なメッセージが強くあるからこそ、最後にどうして?がすごいです。。

 

    戸塚君が演じてた新入りの設定だとか、去年の少年たちを見ていたり、何度も見ていたりしている人にとっては、「京本」はずっと一人ぼっちで、孤児院でいじめられて、、そんな境遇だからこの囚人達がはじめて出来た仲間であって、ケンカばかりなことに疑問を感じたりするっていうのは分かるんですけど、果たして初見だったらわかるのかな?去年よりその部分の補完が薄くて、まっさらな気持ちでみたら全編とおしていったい何者?ってならないかな?と思うことが。

勿論劇中のキョウモトって12人の中で浮いた存在で、京本君自身の演じ方に加えて雰囲気とか体型、声色も含めてその異質感がより際立って出ているのですが、やはり彼の存在に対する描写が去年のほうが分かりやすかった。それは岩本くんも同じかなと。(岩本君とジェシー君の対立の理由がテーマを変えたからすごく薄くなってしまって、結果その理由でジェシー君少年院に入って、戦地行って、戦死するにいたるってどうなの?とも思ったり、、)2幕になっても、一体なぜそこまでして彼は二人の間をつなげようと必死なんだろう、それは勿論二人の音楽を世界に広めたいんだっていうことなのは再三再四セリフにあるけど、、とどこか腑に落ちない。

ただひとつだけ助けがあるとすれば、ジェシーが死んだあとに一人突っ伏し、顔を上げて悲痛の叫びのように歌う演技をみてると悲しいだけじゃなくて、自分が一人ぼっちで生きてゆく中で支えであり、大事にしていた「音楽」を通じてできた初めての友人と、その友人が最も大切にしている友人とを結びつけるものがまさにその「音楽」で、そのために身を削って奔走したにも関わらず、全てが崩れていた悔しさや虚無感やらあらゆる感情が一気に噴出した瞬間なのかなと思ったりもするので、納得できる気がします。京本君の泣き方はジェシーが死んで悲しいということより、どこか怒りだとか悔しさも含んだ悲痛に感じるので。ここは千秋楽にかけて楽しみにしていきたいところです。(去年以上に京本君はこのラストのシーンでキョウモトを噛み砕いて理解してがーっと役に入ってる気が。)

 

去年すごく好きなシーンが出所で一人ひとり散っていくシーンだったんですよね。結局出所してもキョウモトは一人ぼっちなんだってのが強調されてて。だけど今年は、シーンとしてキョウモトはずっと一人だと思わされるのではなくて、話全体を通してずっと一人で、ペアになる人もいないし、ジェシーはキョウモトがいくら彼を友達だと感じても一番は岩本で。だけどキョウモトは自分が一番の友達になろうという意思はさらさらなくて、ジェシーと岩本をつなげる役に徹している・・

ここまで書いてると結局キョウモトってずっと一人で最後まで一人で、これからも一人だけど、一体何者なんだ、、一番救いのない本当の仲間がいない子なのだろうか、、となれば、この異質感とストーリーテラーとして動き回る彼も納得できる、、と思うけど、じゃあなぜ1幕で「なにか俺に出来ることはないのか!」と囚人全体のことまで考えているのだ、、去年にはない絶叫をするのだろう、、とか。

 

京本君の歌もお芝居も全て満足なので、彼の1幕から2幕にかけての演じ分け方だとか、表現力だとか全て今までの経験をぶつけているな~とか見てて気持ちいくらいに楽しいんです。ただこの個人的にうだうだとストーリーを考えつづけていることで、結局少年たちをみにいくのは京本君が出ているから、に落ち着いて、それで結局満足もしているのが事実で、どこか矛盾を感じます。

日経エンタの連載で光一さんが苦言を呈していたまさにその楽しみかたを自分自身がしてるわけですし、、

 

はたして千秋楽までに結論はでるのか分かりませんが、懲りずにまた見に行こうと思います。

ということで、千秋楽が終わればまたいつもの書きとめておきたい部分を書くのかな。